たんぽぽ

ハーティーラダーのユーザーの天野さんの詩です。

たんぽぽ たんぽぽ
           天野茂
たんぽぽ たんぽぽ 愛しい響き
1つの花に花びら5枚 みんなで集まり黄色に開く  
花が集まるデパートのよう
風に乗って 花咲く地から飛んできた

たんぽぽ たんぽぽ 愛しい響き
雌しべが受精し種づくり みんなで揃って花を閉じる
綿毛を作る工場のよう
風に乗って 花咲く地へと飛ぶように

たんぽぽ たんぽぽ 愛しい響き
1つの種に1つの綿毛 みんなが離れて大きく開く
種が飛び立つ飛行場のよう
風に乗って 花咲く地へと飛んでいけ

針生さんのコンサート みかぼみらい館

針生惇さんがマイマリンバで演奏なさいました。
奥様のバイオリン、井出博子さんの歌声も加わり黒人霊歌「深い河」に豊かな彩りを感じました。マイマリンバの出だしのトレモロに大きな河全体の流れを感じ、そこにバイオリンが水流の動きが見えるような心象を加え、さらに、ソプラノ声が人の祈りが加わったように聞こえ、やがて、マイマリンバ、バイオリン、声が三つ編みの組みひものように厚く密になって一体化して、全体で大きな河のすべてを感じました。今更ながら、曲名が「深い河」であったことに納得がいきました。
ALSの影響で、ところどころタイミング通りにいかないこともあるにはあったのですが、今思うと、そこも含めて、すべてが響き合って深い祈りになっていったように感じます。

本間武蔵先生より

オルゴール機能でトルコ行進曲を連弾

先月、上京したときはちょうど Sさんの成人式の日でした。
神経病院で話をしていたら,晴れ着を見せに来てくれました。

そこで本間先生と二人でハーティーラダーに入っているオルゴール機能の、トルコ行進曲の左手用と右手用の楽譜を御祝いに連弾しようと言うことになりました。
練習は1回だけのぶっつけ本番。

途中で私は緊張して止まってしまって大失敗でした。が、連弾はたのしかったです。
このときのバージョンは和音やトレモロの場合、音の合成をその時にやっていたため、若干タイムラグが発生していましたが、最新盤ではそこは改良して、押したらすぐになるようになっています。
連弾にはパソコンが2台以上必要ですが、よかったら、楽しんでみて下さい。
うまく弾けると嬉しいですよ!

コミュニケーションって何だ

岡部さんが4年前に書かれた「コミュニケーションって何だ」に加筆したものを送っていただきました。このサイトを訪れて下さる人は、コミュニケーションについて、常に考えておたれる方でしょう。「コミュニケーションの本質」について誰でも知っておいて欲しい内容だと思います。是非、ご一読下さい。

コミュニケーションって何だ by 岡部宏生
ある日ヘルパーAさんとBさんと私が話していました。
Aさん「こないだ、患者さんにはYESで答えられるように質問してくださいと言う話を聞いたのだけど、それってどうなのだろう。実際そんなことを考えて患者さんと話すのかな。」
Bさん「どうだろう。しないかも。私しないな。」
Aさん「そんなことをするのでなくて、話したいことを話せるようにすることが大事ですよね。ケアの事はなるべく短いコミュニケーションにして、時間を使うのは本当に話したいことに使いたいですよね。」
Bさん「待って、それはおかしくないですか?ケアについては十分コミュニケーションして患者さんの希望を聞いてやるべきでしょう。」
Aさん「ケアについては、決まったことを正確にすればいいのでしょう。それに時間を使ってはもったいないです。もっと別のコミュニケーションに時間を使うべきです。」
Bさん「それは違うと思います。ケアはコミュニケーションしながらやるべきものです。しかも、症状が変わるので、それに対応するケアをするためには、患者さんとコミュニケーションをとらないとできません。」
Aさん「それは、対応が変わった時に変えればいいし、ヘルパー同士で引き継ぎをしないと効率が悪いです。」
Bさん「効率というのは、納得できないな。ケアは効率でないと思う。」
Aさん「仕事に効率は大事です。」
Bさん「、、、、」
Aさん「、、、、」
ちなみにふたりのヘルパーさんはケア中の質問はほとんど全部YESで、答えられるようになっていました。意識して気を付けていているとケアに慣れていないヘルパーさんは、YESでは答えられない質問の仕方をしています。
私はふたりの会話を聞いていて思いました。
ケアをどのようにやってほしいかは、十分聞いてほしいです。そういう意味ではBさんの言うとおりです。ところが、普段のケアでは、どうでしょう。私はできるだけケアのことについては、時間をかけずに決まった事を正確に早くやってほしいのです。ケアの内容をいちいち毎回説明などしたくないし、そんな時間はありません。それはAさんの言っているとおりなのです。つまり私にとっては、ふたりの言っていることはどちらも正しくて、必要なことなのです。
当たり前のことですが、信頼していてケアが上手くできるヘルパーさんなら、なるべくケアについては、コミュニケーションは少なくしたいし、少なくてすむということです。ヘルパーさんと患者の関係性による訳です。
私の場合は決まったケアはなるべくコミュニケーションは省いて時間を短くしたいです。
その時間は他の事に使いたいのです。例えば、メールを書いてもらったり、原稿を作成してもらったり、時には会議などに使いたいのです。
もちろんケアが変わった時には、十分話したいですが。
では、他の患者さんはどうでしょうか?
コミュニケーションというのは手段で、目的は意思を伝えあうこと。結果として、ケアの内容が伝わったり、相互の考えがわかったりします。時にはコミュニケーションは手段でなくて、目的そのものになります。
私のように特殊な方法でしか、コミュニケーションができない者でも、意味のない世間話が嬉しい時があります。健常者でも、たわいもない会話を楽しむことはよくあることです。
ALSの患者は、症状が変わりますし、しゃべることなどコミュニケーションに不自由がないときは、ケアの内容の伝達も含めていくらでも伝えられるし、時間的な問題もあまりないので、それほどコミュニケーションについて考えることはないだろうと思います。
私のようにかなりコミュニケーションが特殊で、むずかしくなってくると、コミュニケーションはどのように確保するかや、コミュニケーションに費やす時間の配分はとても重要なことになります。
私よりずっとコミュニケーションが難しくなった患者さんの知り合いを見ていると、コミュケーションの時間はどんな時間なのでしょうか?
ある時コミュニケーションがとても難しくなった患者さんに続けて会いました。そのふたりの患者さんは、一時は全くコミュニケーションが取れなくなった時期もある人たちです。
ひとりの患者さんは2時間かけて
「これからも良い関係でいてください」
と言いました。2時間かけて言われた重みをしっかり私は受けとめられたでしょうか。
次の患者さんは、その患者さんのコミュニケーションにとても熟達したヘルパーさんが、コミュニケーションのためだけにケアに入っている場面に立ち会っていました。その患者さんはもう普段はほとんど誰とも話すことができていない人ですが、その時は1時間かけて
「俺の・い・ん・か・ん」
と言いました。気の遠くなるような作業ですが、それぞれにその時に話したいことを言っているのです。
もうコミュニケーションが全くというほどとれない患者さんもいます。
家族はあらゆる方法を工夫して、専門家にも相談しているのですが、どうしても明確なサインがわかりません。その家族はあきらめることなく、その患者さんに語りかけ、質問を繰り返しながら、日々の生活をしています。そんな生活が2年半つづいています。最近では、質問や何かを話かけた時に、笑顔になる時がYESという判断になってきました。それは決して間違ってないように思えます。その家族が別の患者家族の話を聞いて、驚いていたことがあります。その別の家族の患者さんは、目が動くので、文字盤が使えるのですが、訪問看護士さんもヘルパーさんも時間がかかるので、文字盤は使わないと言って、決まった時間に決まったケアをしているそうです。それを聞いた先の家族は、コミュニケーションが取れるのに、とらない人がいるなんて、信じられないと言っていました。
今言った患者さんは、会話コミュニケーションが明確にとれないですが、笑顔がとても素敵な人です。
患者さんによっては、全く表情もない人もいます。
私の親しい患者さんも5年前には、かろうじて目の動きでコミュニケーションを取っていたのですが、現在は全く動かなくなった人がいます。
その患者さんと一緒にピアノの生演奏を聴く機会がありました。その患者さんが健康だった時によく聴いていた曲をリクエストして演奏してもらっていた最中に患者さんのつけていたパルスオキシメーターの脈拍は60台からずっと90台に上がっていました。途中では涙も見えました。それもコミュニケーションのひとつだと感じました。
言うまでもないのですが、コミュニケーションは言語だけではないのだと思います。それは誰しも思うことですが、私にとっては、現在は言語によるコミュニケーションは極めて重要であり、それを失うことは耐え難いことのように思えます。
また、患者さんによっては、コミュニケーションが取れる身体状態であるにも関わらずに、コミュニケーションを取ろうとしない人もいます。
どうしてなのかをその患者さんたちに聞いてみたいのですが、それはなかなか実現しません。
ひとりだけ聞いたことがあるのですが、その人は人口呼吸器をつけないと決めていて、もう少しで死ぬのに何も話したくないと言っていました。
それはあきらめとヤケのないまぜのように感じられました。
さて、患者にとってのコミュニケーションは何でしょう。
その時々によって、変わっていくものでしょうし、皆に当てはまるような答えはないでしょう。
コミュニケーションがとれなかった患者さんがとれるようになったときの喜びは患者さんからも支援者からも聞きます。
反対にどんなに働きかけても、コミュニケーションがとれるようにならない話も聞きます。
私は患者さんに言いたいです。コミュニケーションをしようとしている人がいるなら、何かを伝えようとしましょう。私たちの患者仲間には伝えたくても伝えられない人もいるのだから。どうせすぐに死ぬと思っても、それは誰にもわからないので、生きているうちに何かを伝えようとしてみてはどうでしょうか。
支援者の人にお願いです。
もちろんコミュニケーションをとろうとしてほしいですし、そのためのスキルを持ってほしいと思いますが、どんなにやってみてもうまくコミュニケーションがとれるようにならなくても、コミュニケーションをとりたいという気持ちを失わないでください。
そういう患者のところから帰るときは、いつでもコミュニケーションをとりたくなった時は支援をしたいと思っていると伝えてください。
コミュニケーションをとりたくてもとれない患者とコミュニケーションがとれるのに、取らない患者は言い方によっては、同じコミュニケーションが取れない患者と言うことになります。私が全くコミュニケーションが取れなくなった時に、誰もコミュニケーションを取ってくれないことと誰かが話しかけたり様子を伺ってくれるのでは、全く違うと思います。
患者は誰にも何も伝えない、いま伝えられないという状態だったとしても、何かを待っているのだと思っていてください。
もしそうでない患者さんがいたとしても、何かを働きかけたことは、そんなに問題だとは思えません。
もちろん、強引な方法を取っても良いというわけではないですが。
私の友人に気管切開は絶対にしないと決めている患者さんもいます。
その人が言っていました。誰も生きてほしいと言ってくれないのは寂しいと。コミュニケーションは最後まで求めていますが、まわりはもうやろうとしてくれない状態は、本当に寂しいです。
どうかできるだけ、患者も支援者もコミュニケーションを取ろうと言う気持ちを忘れないでください。

コミュニケーションって何だ から4年経って
「コミュニケーションって何だ」は4年前に書いて、その後何度か修正したものです。私のコミュニケーションに対する気持ちを詳しく書いてあるものです。
これからお話する事は、4年経過した現在の私の気持ちです。
私はコミュニケーションの手段をいくつかもっています。
いわゆるハイテクのパソコンを利用することと今皆さんの前でやっている口文字と文字盤というローテクの方法です。
口文字は早くてとても便利なのですが、私はこの2年くらいは大変疲労するようになったことと多用すると顎関節と?の辺りが痛くなって痛み止めを服用しなければなりません。
それで最近は文字盤を主体の道具にしています。

お伝えしたいのは複数の手段を持つことの重要性です。
ハイテクもローテクもいくつかの手段を持つことにより病状の進行に対応できたり環境の変化にも対応しやすいということになります。
支援者である皆さんにはご苦労をおかけしますが、患者が複数のコミュニケーションの手段が持てるような支援をお願いしたいと思います。
もちろん患者との関係によってはそれどころでない場合も多いと思いますが、1つの理想として覚えていてくだされば嬉しいです。

では4年経った私の心情についてもお伝えしたいと思います。
先程申し上げましたように、口文字はとても不自由になってきたばかりか文字盤も長い時間はかなりの疲労をするようになりました。
パソコンの入力は姿勢にもよるのですが、30分でメールをやっと一通ひらけるということもあります。
そういうことに対応してくれるICT救助隊が身近でサポートしてくれるので、私は何度も病状がまるで時間を遡ったように感じることもしばしばあります。
ですが、やはり進行は明確に感じざるを得ない状態です。

仲間の患者を思うときは言語によるコミュニケーションが難しい人に対することを忘れないようにしてきましたが、とくに最近はコミュニケーションが難しくなってきている仲間との交流を大事にしています。
コミュニケーションが難しくなってくると諦める事が多くなっていきます。
私も以前なら考えられないほど諦めるようになってきました。

つい先ごろ封切られた映画(こんな夜更けにバナナかよ)の予告編をみました。
抜群に面白そうだと思いましたが、私はもう少し違った視点でもみていました。
主人公が夜中に介護者にバナナが食べたいというのです。
そのわがままぶりを主人公の愛すべき人柄と関係性の深い介護者達が腹立たしくもユーモアに包まれたエピソードに仕上げてあります。
これをみて実際にこんな感じの事もあるなと感じましたが、それは発話が自由に出来るからこそ生まれるシーンなのです。
発話困難なものはそれどころではありません。
バナナが食べたいというのにいったいどれくらいの時間がかかるでしょうか?
そんな事を言っているうちに夜更けは夜明けになってしまいます。
介護者にもそんな余裕はありません。
こうして諦めていくわけです。
かつて日本を代表する障害者の方が言っていました。
普通に発話出来る人は障害者とは言わない。
極端な表現ではありますが私もそう思う時があります。言い換えればそれほどコミュニケーションが大事だという事になります。
どうか支援者の皆様、発話困難なものの辛さを想像して絶対に諦める事なく患者の支援をお願いしたいと思います。
もちろん私達患者も諦めてはいけないと思いますが、私達は諦める事によってしか生活が成り立たないという部分もたくさんあるので諦める事に大変慣れてしまっています。
できうれば皆さんはそうした諦めの気持ちにも働きかけて頂けると、もしかしたら患者の気持ちが動く事もあろうかと思います。
実際に以前は社会的に活躍していた患者がコミュニケーションが難しくなってしまって周囲の人もどうしたら良いかわからなくなってしまった患者の例はたくさんあります。
色々とお願いばかりになってしまいますが、最後にもう1つお願いがあります。
コミュニケーションに限ったことではないのですが、支援はその患者それぞれに寄り添ったもの、つまりその患者のやり方や生活を受け入れて支援をしていただきたいと思います。
例えば私は絶対先読みをしてほしくないのですが、私の友人には先読みどころか全くの意訳を介護者に任せる患者がいます。
その人から、どうして岡部さんは即時性より正確性を求めるのですか?と質問されたので心が狭いからですと答えて笑いを取りましたが、本当は語尾を間違えることは命の危険につながるので、普段から癖をつけたいのです。
その友人はALSではなくて呼吸器をつけていないことが私と決定的に違うところです。
このように状況によっても大きな差が生まれます。
もちろんその人の性格もあるわけですが。
私達も諦めることにならないように発信して参りますので、どうぞ皆様諦めないをキーワードとして支援をお願いしたいです。